幸い二日酔いもなく芳夫はいつもより少し早く目が覚めた。頭痛も無い。あのまま付き合って二次会のラウンジまで行かなくて本当によかったわ。行くと後悔すると分かっているのに何故行ってしまうんだろう?何度も後悔した自分を思い出しながらベッドから体を起こすと部屋に一つだけある窓のカーテンを開けた。低層階だがマンションの下に広がる一軒家の屋根が朝日のおかげで鮮やかに見える。快晴だ。澄んだ空気が見えそうなそんなキラキラした朝だ。それにしても、あいつも相当のめり込んでんなぁ 大丈夫かなぁ そわそわと闇夜に消えていった昭男のことが少し心配になってきた。口を開けたまま芳夫は鏡の前で歯磨きの途中で手を止めた。「別れたのが10時半を回ってたもんなぁ あの時間から座ったらラウンジ側だって1時間じゃ帰さないただろうからきっと12時は確実に過ぎてるだろうな。で、終電には乗らずにタクシー乗ったとして家着くのは早くて1時だ。シャワーして寝て1時半過ぎってところだな。止めていた手を動かしながら「やっぱ行かなくて正解だったわ」リュックを背負って靴を履こうとしたところで昨夜出店で買ったメガネのことを思い出した。履きかけた片方の靴を無造作に脱ぎ捨てると部屋に戻った。壁に沿ったサイドボードに簡単に設えた芳夫なりの母親のための仏壇がある。仏壇と言えるものではなくて単に母親の遺影の前に小さなグラスに水を供えているだけのものだ。その前に置いておいたあったメガネをひょいとかけて息をひとつ吐いてから「行ってくるよ」小さく声をかけて家をでた。
「おっまだ25分前かぁ」意識をして早めに出ることはあっても無意識に早く出て後から早くでたことに気づくと嬉しくなるものだ。普段なら7時30分を過ぎて家を出るのだが,芳夫は少し得をした気持ちになって嬉しかった。駅までの10分弱の歩く道のりも軽やかになってくる。なぜか空気まで新鮮に感じていた。朝は駅へと歩く人々にも自然と馴染みができてくるものだが数分の違いで馴染みの背中も様変わりしていることが面白い。基本的に前を歩く人の背中をみて歩くことになるので顔はよく知らない人が多い。ここに住んで4年以上も経つと駅のホームで会えば会釈くらいはする間柄になっている人も数人はいる。ただ,普段は背中をみているだけなのだが・・・
「あんな女の人は見かけたことはないなぁ~」
「服装と後ろから見る背格好で30代半ばってところかな」髪の長さは肩にかかるくらいの軽いカール,色はさほどキツくないブラウンといったところだ。
「いやぁ嫌いじゃないっていうか好きな感じだなぁ」失礼な話しだ。ただ決して追い越すことはないように一定の距離を保ちながら芳夫は駅までをついて歩いて行く。すると
「うん?」
「今,一瞬何か揺れたなぁ」地震でもないのに。20m近く前を歩く女性のお尻の辺りの空気が澱んだように少し揺れて見えたのだった。一瞬の出来事だった。そして女性は駅の方へ向かう道を左折して芳夫の視界から見えなくなってしまった。
「何だったんだろ?」2秒もないくらいのほんのちょっとした瞬間だった。
「目の錯覚かな?」芳夫はさほど気にすることもなく前を歩いていた女性が駅の方に左折した方へ曲がって駅の改札へのエスカレーターへと向かった。登っている間にスマホの受信メールだけを確認すると改札へと入って構内の運行表示版を見て
「よかったいつもより一本早い準急に乗れそうだ。」新宿行きのホームへと下りのエスカレータに乗った。つい前を歩いていた女性を探してみるが見つからない。それ以上は深追いすることはやめておいた。
エスカレータを降りてホームにでると準急電車の乗車位置まで歩いていった。その乗車口の表示にはすでに3人ほどが並んでスマホをいじっている。芳夫はその後ろについた。何十回,何百回と聞いた電車が入ってくる時の構内アナウンスが軽やかに流れてきた。「三番ホーム,黄色の線の後ろまでお下がりください。準急新宿行きがまいります。」男性なのに綺麗な声だなぁ 芳夫はこの決まったフレーズの言い回しが好きだ。音も静かにクリーム色にブルーのラインの車両がホームに入ってきて乗車位置の印の前で両開きドアの真ん中に合わせて止まった。「大したもんだ。日本の鉄道は世界一だろうな」感心しながら前の人に続いて車内へと入っていった。今度は車掌の澄んで通りのいい声が少しきつい感じで聞こえて来た。
「ドア付近に立ち止まらず中へとお進みください。ご協力のほど宜しくお願い・・・」その時だった。アナウンスが終わるか終わらないうちに芳夫は立っているのが辛くなるようなめまいに襲われた。咄嗟に目の前の手すりにつかまって転倒だけは免れた。
「どうしたんだろ?」
「こんなの初めてだ」
幸い意識はある程度はっきりしている。ただ体の感覚が実感できない。感触がないのだ。さらに音が何も聞こえてこない。さっき車掌さんの少しきつい車内アナウンスや,車輪が一定のリズムで刻み続けるレールの繋ぎ目ごと走行音すら聞こえてこない。さらに周りには上着が少し触れ合うくらいに混んでいる乗客同士の人の気配までもが一切感じられなくなってしまっているのだ。
「いったどうなっているんだ」
芳夫は唯一の外界の情報を取り込むことができていた目が自然に塞がるのを感じて記憶をなくしてしまった。どれくらいの時間が過ぎたのだろう?気づいた時には芳夫はさっきまで準急電車を並んで待っていた駅のホームに立っていた。
「あれ?どうしたんだろう?」
さっきと同じように芳夫の前には3人が並んで電車を待っている。
「さっき準急乗ったよな?」心の中で自分に聞いてみる。
「そっか結局,急行にしたんだった」芳夫は思い出した。
「準急を一本やり過ごして後からくる特急をここで待っで乗るか?それとも後からくる急行を待ち合わせする相模大野駅までは少しだけ空いてるこの準急で楽に行って激混みの特急に後から乗るか?」準急に並びながら考えていたのだった。そして準急に乗ったつもりだったのだ。久しぶりに急行で行くかな。そう思っていると駅の構内アナウンスが聞こえて来た。
「三番ホーム,黄色の線の後ろまでお下がりください。準急新宿行きがまいります。」
「えっ準急?」
「あれ?急行じゃないの?」芳夫は少し混乱した。4年も乗っている通勤電車だ。この時間帯の登り電車の時刻表と準急、急行,特急が走る順番やどこの駅で次を待ち合わせるのかといった情報は自然と頭が覚えている。
「間違いない。次は急行だ」電車がホームに近づくにつれて構内アナウンス聞こえてきた。
「三番ホームの電車は準急の新宿行きです。お乗り間違えの無いようにご注意ください。この電車は相模大野駅で後からまいります急行新宿行きを待ち合わせ致します。新宿には後からまいります急行新宿行きが先の到着となります。ご注意ください。」
「えっやっぱ準急なの?」
芳夫は何か心の中の闇に急かされるように時計を見た。アップルウォッチのデジタル表示盤の針は7:34を指している。家を出たのが7時25分前だった。駅まで歩いて10分はかからない距離だ。準急をやり過ごして急行に乗ろうとしているのにホームに入ってきたのが乗ったはずの準急だ。この後の急行は40分過ぎのはずだ。
「えっどうなってんだ?」
「だってさっき準急乗ったよな、俺」
次第にさっきまで聞こえていた構内アナウンスもいつの間にか聞こえなくなっている。電車の走行音も周りの雑踏も気配も何も感じないし聞こえない。
「俺,どうしちゃったんだろ?」ねっとりした変な汗で背中とシャツとリュックがくっついて気持ち悪い。