芳夫と昭男は同じ会社に勤める同僚だ。同い年だが芳夫が二浪している分昭男の方が入社は2年先輩だ。その分、肩書きも違う。昭男は担当課長という管理職だが、芳夫の名刺にはリーダーという肩書はあるが会社組織の中の正式な役職ではない。少し微妙な関係ではある。社内にいる間は芳夫は敬語で話すように気をつかってはいるが二人で飲んだりする時などはタメ口になる。そんな間柄だ。昭男もそんな関係は十分に理解していて逆にそれが二人にとってのいい関係だと思っている。昭男は結婚していて小学校に入ったばかりの娘がいる。社内結婚だ。奥さんのことは芳夫も結婚前から知っている。こうして飲み歩いているときはたまに昭男の消息の確認に連絡が入ったりもする仲だ。さっき昭男が別れ際に両手を合わせて合図をしたのは辻褄合わせの依頼という意味だ。幸いなことに奥さんから今のところ問い合わせの連絡は入っていない。芳夫にしてみると同い年の同僚が結婚していて子供もいるという状況に少し焦りというか羨ましさ的な気持ちもないではない。ただ、特に独り身で困ったことはないし何より好意を寄せる相手そのものがいないことには始まらない。
別れ際、やはり申し訳なさそうな気持ちがあったのだろうか?少し苦笑いしながらネオンの先に消えていった昭男の顔を思い出しながら芳夫は小田急線の町田駅に向かって歩き出した。酔い覚ましの時間が必要なほどは酔っていない。そもそも酔って帰っても誰も待っているひとなど居ない独り身の気楽な生活だ。結婚を考えていない訳ではないが相手がいないことには想定する未来も単なる絵空事だ。当然、夢を描くことは自由ではあるが、昭男は空しくなるまえに深くイメージを膨らませる前にいつも思考を止めるのだった。
行き交う人の流れとは少しあいだをおいて端のほうをゆっくりと歩いた。すると前方のぼぉっとさほど明るくない電球を灯した小さな明かりがともっている場所が見えてきた。
「あれっ、なぁんだ露店かぁ でもあんなところにあったっけなぁ?」 心の中で過去の記憶と照らし合わせながら歩き進んでいくと、斜めに突き出した2本の長い竹を使って張られた布地の屋根の露店が見えてきた。ちょっと覗いてみようかなと好奇心に惹かれるままに覗いてみることにした。少し腰を低くして近くに寄ってみるとさほど価値があるとは思えない物が裸の板の台の上に隙間をあけて並べられて売られていた。露店のそばに立つとさっきまで否応なしに周りから耳に入ってきていた町田の雑踏が一瞬にして聞こえなくなった。シーンと静まりかえった山奥の瑞々しい新緑の静けさの中にいるようなそんな感覚だった。一瞬自分が何をしようとしているのか忘れてしまった。ふと気づくと商品が並べられた台の端のほうにふたりの人間らしい存在がいることに気が付いた。二人は何か会話をするでもなくただそこにじっとたたずんでいるだけのように見えた。そのふたつの存在とは少し距離をおいて芳夫は並べられた商品に目を向けた。残念ながら一見しただけで心を惹かれそうな代物はないなと思った。ふつうこの手の露店なら子供が目を丸くして飛びつきそうなカラフルな色使いのおもちゃなどが並んでいるのが普通だが、残念ながらその手のものもひとつもない。隙間を多くとって並べられている少し古めのおもちゃが余計にその魅力のなさを漂わせていた。ひとつ救いなのは裸の陳列板の背後で薄暗いで明かりの中、芳夫を見上げながらニコニコしているお婆さんの笑顔だった。芳夫が思わず小さく眼だけで会釈をするとほんの少しほほのシワを増やすようにこっくりと頭をさげてくれた。そんな笑顔を無下にして屋台を離れることに気がひけた。ふと陳列板の端をみると大きな黒ぶちのべっ甲みたいなメガネが目にとまった。昔のアメリカ映画にでてくるサラリーマンがかけているようなメガネだ。手書きで値札に300円と書いてある。思わず手にしてみるとすぐにプラスチックのそれだと分かった。掛け見ると意外とフィットしているのが自分でもわかって心の中で似合ってるかなと可笑しくなった。。相変わらずお婆さんはニコニコと笑顔を見せてくれていた。「もしかしたら賢く見えるかな?でも少し古いデザインだしなぁ」そう心の中でつぶやきながら「おばちゃん、これッ」そう言いながらポケットの小銭用の財布から300円を差し出した。お婆さんはニコニコと笑顔を見せながら芳夫受け取った三枚の100円玉を目の前の台の上に横一列に一枚づつ並べ始めた。口がもごもごと小さく動いて何かおまじないでもしているように見えた。芳夫は小さく「ありがとうね」と言ってその露店を離れた。買ったメガネかけずにリュックの小さなポケットにしまって歩き出した。小田急線町田駅に向かう商店街は平日の10時を過ぎても若者や顔を赤らめたサラリーマンが行き交っている。芳夫が歩き出して暫らくするとさっきまであった屋台がそこに居たふたつの存在も一緒に煙のようにすぅっと消えてしまっていた。露店があった場所はもともと建設工事が中断されたビルのエントランスだった。そこに露店があったことなど商店街を行きかう人々にはまったく気づいていない。というよりも行きかう人々にはその屋台やふたりの人の存在そのものが見えていなかったのだ。途中、芳夫は千鳥足のグループにぶつかられそうになりながら歩いた。両脇の店の看板のあかりの上に広がる深い紺色の空に星が光っているのが見えていた。振り返らずに歩いていた芳夫は露店が消えてなくなってしまったことに気づくはずもなかった。そして消えてしまった露店があった地面には三枚の百円玉が横一列に並んでいた。