1-1 博田芳夫と高井昭男

いつもの町田の居酒屋で

「ご馳走様ぁ」博田芳夫がカウンターの中の親父さんに声をかけた。
「毎度ぉ ありがとうございます。」
「3番さんお勘定」威勢のいい太い声がレジに向かって発せられた。東京飛び地町田のさほど広くない居酒屋は10時を前にしてもネクタイを外した男たちの愚痴とブツける先のない怒りがタバコの煙をかき混ぜている。テーブルからはみ出した男たちの足と足の間を器用に縫うように店員の若い娘がカウンターに座る博田の横まできて声をかけた。
「毎度ありがとうございます。こちらお願いします」伝票の数字をみて財布を準備している間に気を聞かせてくれたのかそれとも財布からお金を出しているその間が持たずに気になったのか話しかけてきた。
「お連れさん大丈夫ですかね?」博田の横で高井昭男は組んで前に出した両腕の上に顔を埋めて動かない。
「ごめんねぇ、これでも一応課長さんだから疲れてんだよ」
「あ、いえ大丈夫ですよぉ」そう言うと若い娘は博田から預かったお金を持ってレジの方にまた足と足の間を縫うようにして戻っていった。
「課長さんしっかりしろよ」博田はそう思いながら高井の背中をポンポンと軽く叩いて言った。
「おい、帰るぞ、起きろぉ」

町田という町は変わった町だ。老若男女という表現では表しきれないほどの今でいうジェンダーレス人種が妙なバランスを保っているそんな町だ。高校までを福岡の郊外で過ごした博田芳夫にとって町田という街が持っているその垢抜けない雰囲気が馴染めたし都会にいるとう小さな優越感も持たせてくれていた。ただ誰にたいする優越感かまで深く考えることは必要なくて都会にいるというそれだけでよかった。学生時代に小田急線の生田駅周辺で生活していた博田は町田市が東京都のひとつの市であることは以前から知っていたが神奈川県の中にある東京飛び地だいうことを知ったのは上京してずいぶん経ってからのことだった。

「あぁ〜ごめん、ごめん、寝ちゃったなぁ」そう言いながら高井昭男が組んだ両腕から自分の顔を起こしたところにお釣りを持ってさっきの若い店員が戻ってきた。
「こちらお釣りです。ありがとうございました。領収書はどうされますか?」
「いいよ、要らない。ご馳走様ぁ」博田がお釣りを受け取って財布にしまっていると
「払ってくれた?いくら?」高井はそう言うと身を捩って横の椅子に置いたカバンの中に手を伸ばした。
「いいよ、今日は」博田が言うと高井はニマッと笑って
「ゴチっ」と手を挙げた。そして残ったビールを手に取ると一気に飲み干した。博田は少し警戒した。高井はここからが長い。勘定を済ませてもなかなか席を立とうとしないからだ。そして話が始まった。
「あいつさぁ、また俺が苦労して調べて作った資料を利用して上に説明してたわ」高井昭男の愚痴が始まった。今日の幹部会議での出来事らしい。
「まぁな、分かってんだよ俺は、あいつはそう言うやつよ。うまく周りを利用して出世して行くタイプだよ」長くならなきゃいいけど、そう思いながら博田は聞いているフリをしながら高井の話の切れ目を探っていた。
「おい、帰るぞ」タイミングをみて博田は席を立った。まだ高井はまだブツブツと念仏のように何かを唱えている。
「お気をつけてぇ」マスターの声に振り帰って会釈をして二人は店を出た。


「どうする? 次、行く?」高井が聞いてきた。酔いが抜け始めているようだ。
「今日は俺、やめとくわ、一人で行ってきたら?ユキちゃん待ってるじゃねぇの?」
高井は博田から目線を逸らして一瞬何か考えるような素振りをした。すぐに吹っ切るように言った。
「そっか、じゃちょっと俺、顔出してくるわ、お疲れな」高井はそう言うと顔の前で両手を合わせて目で合図を送るとそそくさと馴染みの小さなラウンジの方へと消えていった。
「ふふ、あいつも好きだなぁ~」高井の背中を見送りながら博田は声に出してつぶやいた。
「さぁ帰ろうっと」