1-6 見えないめがね?

「やっぱり中央林間経由にしとけば良かったかな」
ぎゅぎゅうに詰め込まれた車両の中では不規則に揺れる動きに身を任せたほうが賢明だ。周りも器用に揺れながら思い思いにスマホを見ながら朝の試練に耐えている。それでも芳夫はやっぱり町田乗り換えにしたことを後悔していた。
「さっき準急を降りる時に後ろから誰かに見られている気がしたんだけど、気のせいかなぁ?」
まさか自分が自分に見られていたとは思いもしない。それ以上きにすることもなく目的の駅を待った。たった一駅の区間なのに今日はなぜかいつもよりも長く感じる。
・・・誰かに見られている。そんな気配を感じたことは誰もが一度や二度は経験したことがあるだろう。ふとした時にそんな気がしても特に深く考えることもなくすぐに気に留めなくなってしまうものだ。それは誰かが側で何かを伝えたいことを訴えているのかもしれない。

「町田、町田」芳夫はアナウンスをあとにしてJR線への乗り換えを急いだ。小田急線からJR線までの連絡通路にはいつものように多くの人が行きかっている。自然と左右に往来の流れが出来てみな急ぎ足で先を急ぐ。芳夫もその流れに遅れないように少し急ぎ足でついていく。するとところどころで駅までの道でみた空気の澱みがいくつか見えた。「何だろう?あれ」
「さっきも見えたなぁ」不思議に思いながらそれでも先を急いだ。今日は朝から会議なのだ。さほど重要ではないが社会人として遅刻が信頼関係を構築する上では最低限の必須項目であることくらいは芳夫も自覚している。当然、その澱みがオナラが見えているとは想像もしていない。人ごみで臭いもかき消されてしまっているから尚更だ。
「おはようございます」
8時20分過ぎ、芳夫はオフィスのドアを開けながら挨拶をして自分のデスクへと着いた。始業時間は8時45分だ。デスクに座りながら同じ島に座っているアシスタントの渡辺美知子にも声をかけた。
「おはようございます」美知子のほうが先輩なのだ。正確な歳は知らない。聞いてはいけないのだ。独身という情報は確からしい。
「それにしても誰も何も言ってこないなぁ」芳夫は内心少し拍子抜けしていた。自分が欠けているメガネのことだ。褒め言葉を期待しているわけではないのだが、せめて何かしらの反応を示してほしいものだ。そう感じていた。リュックからノートパソコンを出して目の前のモニターにセットして電源を立ち上げる。パスワードを入力してから6階にある休憩室のコーヒーを飲み行くためにオフィスをでた。朝の日課だ。エレベーターに乗る前にトイレに寄った。これもいつものルーティンだ。中に入ると同僚の近藤がいた。
「おっおはよ」
「おはよう」用を足しながらの挨拶はちょっと気まづい。終わって洗面台についてメガネを外して手を洗っていると近藤が不思議そうな顔で話しかけてきた。
「芳夫さぁ」
「何?」
「さっき何やったの」
「え?何って」洗面台の蛇口に近づくように少し腰を屈めて目を濡らしている芳夫に聞いてきた。
「なんか顔の前でメガネでも外しているような仕草してからさぁ~何やってんのかなと思って」
「え、そうだけど」そう言いながら芳夫は洗面台の傍に置いたメガネをとって自分の鼻にかけ直した。横並びで近藤がその様子を不思議そうな顔で見ている。お互いに目線を合わせた。近藤は少し変な顔をしたが「お先」そういうとトイレから出ていった。
「何なんだろ」芳夫はそう思いながら鏡の中の自分を正面からみて固まった。
「え、メガネがない」鏡に写っている自分はメガネをかけていないのだ。鼻の上にメガネがある感触は確かに感じられている。そぉっと両手で見えていないメガネを持ち上げてみる。確かにメガネだ。’外してみても確かにメガネだ。でも鏡に映った両手にはメガネが写っていない。
「え、なんだこれ」
「俺にしか見えてないメガネなの?」自問した。
「いやいや、そんな事ってあるか」混乱した。すると別の社員がトイレに入ってきた。芳夫は少し慌てて軽く会釈をするとトイレをでた。
「どうなってるんだ?」感触だけでメガネを掛け直すとエレベータに乗って6回に向かった。エレベーターの中にいた顔見知りの社員からは普通に挨拶を受けた。小さな声で返す。メガネのことが気になって仕方ない。
「こいつらもはメガネ、見えてないのかな?」

ピィンと鳴った。休憩室がある6階でエレベーターを降りた。芳夫の会社は小さいながらも自社ビルだ。休憩室にはコーヒーやジュースの自販機があってガラス張りのドアからは外のスペースにでることができるようになっている。始業前のこの少しの緩い時間帯には、日ごろ肩身の狭い思いをしている愛煙家達がカップコーヒーを片手に自然と集まってくる。芳夫はタバコは吸わない。やめて5年になる。さほど辛い思いもせずにスパッとやめることができた。やめたあとも一本も吸っていないがあの香りは好きだ。ただ一本吸うと一気に気持ちが崩れてしまいそうで、それが嫌でなんとか吸わずいられている。自販機でブラックのコーヒーを買って備え付けのキャップをカップにつけて愛煙家には目を向けずに休憩室を出た。エレベーターまで歩く間もめがねのことが気になっていた。

エレベーターの前でボタンを押してしばらく待っている間に少し目眩がした。「あれ、どうしたんだろ」そう思って瞼を閉じると意識が遠のいてしまった。ふと正気に戻っている自分に気がついた。意識が遠のいたことにも気づいていない。芳夫は休憩室を出たところにいることを理解した。そしてエレベータの方をみて息を呑んだ。
「あっ俺だ」
さっき自販機で買ったコーヒーのカップを持ってエレベーターが上がってくるのを待っている自分が立っている。
「えっまただ」
「どうなってんだ、俺」

1-5 俺ッ死んだの?

焦る気持ちをなんとか必死に抑えようとしてもホームから準急に何度も乗り込む様子が思い出されて時間の経過を飲み込めずにいた。すると自分の目線がいつもの目線と違うことに気づいた。
「あれ?」
「俺,こんなに背高かったっけな?」
普段なら周りよりも少し頭がでるくらいで中には自分よりも背の高い人は普通にいる。芳夫の身長は178cmだ。それが今は周りの乗客たちよりも自分頭ひとつ抜け出していることに気がついた。
「えぇどうしたんだろ」足元へ視線を向けると間近にいる乗客たちが重なってうまく見えない。少し頭を下げて覗き込んで見て芳夫は息を呑んだ。
「足がッ・・・ない」
「えッ体も腕も手もないじゃん」自分の手で体を触ろうとするがその感触がないのだ。意識の中では確かに腕はあってそれを動かそうとする思考は脳から腕に伝達されている感じはある。でも肝心の物理的な腕そのものがないのだ。お腹周りやお尻,太ももを触ろうと両腕を伸ばしてみる。確かに意識の中では両腕を伸ばしてそれぞれの部位を触ろうとすが触った感触が伝わってこないのだ。身体中から血の気が引くのを感じた。それでも芳夫はなんとか冷静に今の状況を受け入れようと必死に考えた。そして今自分が経験している状況を繰り返し繰り返し考えれば考える程、どうしてもたった一つの答えにばかり行き着いていくのだ。信じたくない、受け入れたくない、そう思えば思うほど苦しくなってくる。そして芳夫の口から小さな声が力なく漏れた。
「俺って、死んだの?」
乗車口から人の流れに揉まれて車内に入ってからそう答えを出すまでにどれくらいの時間がかかったのだろう。ほんの数分しか経っていないはずだ。いやそれは一瞬かもしれなかったが動かしようのない答えに押しつぶされそうになりながらも芳夫は必死に昨晩からの自分の行動を思い出そうとした。
「えぇっと待てよ。落ち着け、落ち着こう」
「町田で昭男と飲んで、店を出たのが10時過ぎだったはずだ」
「あいつはラウンジに行って、俺は帰ることにして駅までの道を歩いたよな」
「途中、古い露天みたいな出店でおもちゃのメガネを買ったなぁ確か300円を払ったはずだ」
「それから駅に向かって歩いて普通に家に帰ってきたはずだ」
「帰ってからは・・・シャワーはしていない。歯磨きだけはしたはずだ。覚えてる。間違いない」
「早めに寝ようと思ってベッドに入ったもんな」
「どこで死んだんだ?」死にそうな要素なんかないじゃないか。芳夫は少しづつ落ち着きを取り戻していた。周りの様子も次第に落ち着いて見えるようになってきた。その時だった。「えッ あそこに居るのは俺じゃね?」周りから頭ひとつ分抜け出している芳夫から数メートル先の降車口脇のポールのそばに芳夫が立っているのが見えた。するとポールのそばの芳夫が後ろを振り返って不思議そうな顔をして頭ひとつ出ている芳夫の方を見入っている。そしてしばらくすると正面を向き直した。自分が自分に見られていた。振り向いた芳夫には頭ひとつ出ている芳夫のことは見えてなさそうだった。
次第に間に車内のアナウンスも聞き取れるようになってきた。
「相模大野、相模大野」透き通った車掌の声が車内に流れた。
「この電車は準急新宿行きです。ホーム反対側の4番線に参ります電車は急行の新宿行きです。新宿には急行が先に参ります。お急ぎのお客様は後から参ります急行新宿行きをご利用ください」アナウンスが終わるか終わらないうちに降車側のドアが開いた。と同時に一気に乗客がホーム反対側に向かって溢れ出ていく。その人の波に揉まれながら芳夫も急行に向かって早歩きで進む。頭ひとつ分出ているところから芳夫は芳夫が出ていく様子を見送っている。
「あっ、さっき駅まで前を歩いていた女の人だ。一緒の車両に乗ってたんだ」その女性は芳夫の後を追うようにして急行新宿行きに乗り込んで行った。どうしたらいいんだろう?準急に取り残されたままの芳夫は成す術なく宙に浮いたままだ。そしていつの間にか意識を失ってしまった。

1-4 一本早い準急で行こう

幸い二日酔いもなく芳夫はいつもより少し早く目が覚めた。頭痛も無い。あのまま付き合って二次会のラウンジまで行かなくて本当によかったわ。行くと後悔すると分かっているのに何故行ってしまうんだろう?何度も後悔した自分を思い出しながらベッドから体を起こすと部屋に一つだけある窓のカーテンを開けた。低層階だがマンションの下に広がる一軒家の屋根が朝日のおかげで鮮やかに見える。快晴だ。澄んだ空気が見えそうなそんなキラキラした朝だ。それにしても、あいつも相当のめり込んでんなぁ 大丈夫かなぁ そわそわと闇夜に消えていった昭男のことが少し心配になってきた。口を開けたまま芳夫は鏡の前で歯磨きの途中で手を止めた。「別れたのが10時半を回ってたもんなぁ あの時間から座ったらラウンジ側だって1時間じゃ帰さないただろうからきっと12時は確実に過ぎてるだろうな。で、終電には乗らずにタクシー乗ったとして家着くのは早くて1時だ。シャワーして寝て1時半過ぎってところだな。止めていた手を動かしながら「やっぱ行かなくて正解だったわ」リュックを背負って靴を履こうとしたところで昨夜出店で買ったメガネのことを思い出した。履きかけた片方の靴を無造作に脱ぎ捨てると部屋に戻った。壁に沿ったサイドボードに簡単に設えた芳夫なりの母親のための仏壇がある。仏壇と言えるものではなくて単に母親の遺影の前に小さなグラスに水を供えているだけのものだ。その前に置いておいたあったメガネをひょいとかけて息をひとつ吐いてから「行ってくるよ」小さく声をかけて家をでた。

「おっまだ25分前かぁ」意識をして早めに出ることはあっても無意識に早く出て後から早くでたことに気づくと嬉しくなるものだ。普段なら7時30分を過ぎて家を出るのだが,芳夫は少し得をした気持ちになって嬉しかった。駅までの10分弱の歩く道のりも軽やかになってくる。なぜか空気まで新鮮に感じていた。朝は駅へと歩く人々にも自然と馴染みができてくるものだが数分の違いで馴染みの背中も様変わりしていることが面白い。基本的に前を歩く人の背中をみて歩くことになるので顔はよく知らない人が多い。ここに住んで4年以上も経つと駅のホームで会えば会釈くらいはする間柄になっている人も数人はいる。ただ,普段は背中をみているだけなのだが・・・
「あんな女の人は見かけたことはないなぁ~」
「服装と後ろから見る背格好で30代半ばってところかな」髪の長さは肩にかかるくらいの軽いカール,色はさほどキツくないブラウンといったところだ。
「いやぁ嫌いじゃないっていうか好きな感じだなぁ」失礼な話しだ。ただ決して追い越すことはないように一定の距離を保ちながら芳夫は駅までをついて歩いて行く。すると
「うん?」
「今,一瞬何か揺れたなぁ」地震でもないのに。20m近く前を歩く女性のお尻の辺りの空気が澱んだように少し揺れて見えたのだった。一瞬の出来事だった。そして女性は駅の方へ向かう道を左折して芳夫の視界から見えなくなってしまった。
「何だったんだろ?」2秒もないくらいのほんのちょっとした瞬間だった。
「目の錯覚かな?」芳夫はさほど気にすることもなく前を歩いていた女性が駅の方に左折した方へ曲がって駅の改札へのエスカレーターへと向かった。登っている間にスマホの受信メールだけを確認すると改札へと入って構内の運行表示版を見て
「よかったいつもより一本早い準急に乗れそうだ。」新宿行きのホームへと下りのエスカレータに乗った。つい前を歩いていた女性を探してみるが見つからない。それ以上は深追いすることはやめておいた。

エスカレータを降りてホームにでると準急電車の乗車位置まで歩いていった。その乗車口の表示にはすでに3人ほどが並んでスマホをいじっている。芳夫はその後ろについた。何十回,何百回と聞いた電車が入ってくる時の構内アナウンスが軽やかに流れてきた。「三番ホーム,黄色の線の後ろまでお下がりください。準急新宿行きがまいります。」男性なのに綺麗な声だなぁ 芳夫はこの決まったフレーズの言い回しが好きだ。音も静かにクリーム色にブルーのラインの車両がホームに入ってきて乗車位置の印の前で両開きドアの真ん中に合わせて止まった。「大したもんだ。日本の鉄道は世界一だろうな」感心しながら前の人に続いて車内へと入っていった。今度は車掌の澄んで通りのいい声が少しきつい感じで聞こえて来た。
「ドア付近に立ち止まらず中へとお進みください。ご協力のほど宜しくお願い・・・」その時だった。アナウンスが終わるか終わらないうちに芳夫は立っているのが辛くなるようなめまいに襲われた。咄嗟に目の前の手すりにつかまって転倒だけは免れた。
「どうしたんだろ?」
「こんなの初めてだ」
幸い意識はある程度はっきりしている。ただ体の感覚が実感できない。感触がないのだ。さらに音が何も聞こえてこない。さっき車掌さんの少しきつい車内アナウンスや,車輪が一定のリズムで刻み続けるレールの繋ぎ目ごと走行音すら聞こえてこない。さらに周りには上着が少し触れ合うくらいに混んでいる乗客同士の人の気配までもが一切感じられなくなってしまっているのだ。
「いったどうなっているんだ」
芳夫は唯一の外界の情報を取り込むことができていた目が自然に塞がるのを感じて記憶をなくしてしまった。どれくらいの時間が過ぎたのだろう?気づいた時には芳夫はさっきまで準急電車を並んで待っていた駅のホームに立っていた。
「あれ?どうしたんだろう?」
さっきと同じように芳夫の前には3人が並んで電車を待っている。
「さっき準急乗ったよな?」心の中で自分に聞いてみる。
「そっか結局,急行にしたんだった」芳夫は思い出した。
「準急を一本やり過ごして後からくる特急をここで待っで乗るか?それとも後からくる急行を待ち合わせする相模大野駅までは少しだけ空いてるこの準急で楽に行って激混みの特急に後から乗るか?」準急に並びながら考えていたのだった。そして準急に乗ったつもりだったのだ。久しぶりに急行で行くかな。そう思っていると駅の構内アナウンスが聞こえて来た。
「三番ホーム,黄色の線の後ろまでお下がりください。準急新宿行きがまいります。」
「えっ準急?」
「あれ?急行じゃないの?」芳夫は少し混乱した。4年も乗っている通勤電車だ。この時間帯の登り電車の時刻表と準急、急行,特急が走る順番やどこの駅で次を待ち合わせるのかといった情報は自然と頭が覚えている。
「間違いない。次は急行だ」電車がホームに近づくにつれて構内アナウンス聞こえてきた。
「三番ホームの電車は準急の新宿行きです。お乗り間違えの無いようにご注意ください。この電車は相模大野駅で後からまいります急行新宿行きを待ち合わせ致します。新宿には後からまいります急行新宿行きが先の到着となります。ご注意ください。」
「えっやっぱ準急なの?」
芳夫は何か心の中の闇に急かされるように時計を見た。アップルウォッチのデジタル表示盤の針は7:34を指している。家を出たのが7時25分前だった。駅まで歩いて10分はかからない距離だ。準急をやり過ごして急行に乗ろうとしているのにホームに入ってきたのが乗ったはずの準急だ。この後の急行は40分過ぎのはずだ。
「えっどうなってんだ?」
「だってさっき準急乗ったよな、俺」
次第にさっきまで聞こえていた構内アナウンスもいつの間にか聞こえなくなっている。電車の走行音も周りの雑踏も気配も何も感じないし聞こえない。
「俺,どうしちゃったんだろ?」ねっとりした変な汗で背中とシャツとリュックがくっついて気持ち悪い。

1-3 小さな露店で

芳夫と昭男は同じ会社に勤める同僚だ。同い年だが芳夫が二浪している分昭男の方が入社は2年先輩だ。その分、肩書きも違う。昭男は担当課長という管理職だが、芳夫の名刺にはリーダーという肩書はあるが会社組織の中の正式な役職ではない。少し微妙な関係ではある。社内にいる間は芳夫は敬語で話すように気をつかってはいるが二人で飲んだりする時などはタメ口になる。そんな間柄だ。昭男もそんな関係は十分に理解していて逆にそれが二人にとってのいい関係だと思っている。昭男は結婚していて小学校に入ったばかりの娘がいる。社内結婚だ。奥さんのことは芳夫も結婚前から知っている。こうして飲み歩いているときはたまに昭男の消息の確認に連絡が入ったりもする仲だ。さっき昭男が別れ際に両手を合わせて合図をしたのは辻褄合わせの依頼という意味だ。幸いなことに奥さんから今のところ問い合わせの連絡は入っていない。芳夫にしてみると同い年の同僚が結婚していて子供もいるという状況に少し焦りというか羨ましさ的な気持ちもないではない。ただ、特に独り身で困ったことはないし何より好意を寄せる相手そのものがいないことには始まらない。
別れ際、やはり申し訳なさそうな気持ちがあったのだろうか?少し苦笑いしながらネオンの先に消えていった昭男の顔を思い出しながら芳夫は小田急線の町田駅に向かって歩き出した。酔い覚ましの時間が必要なほどは酔っていない。そもそも酔って帰っても誰も待っているひとなど居ない独り身の気楽な生活だ。結婚を考えていない訳ではないが相手がいないことには想定する未来も単なる絵空事だ。当然、夢を描くことは自由ではあるが、昭男は空しくなるまえに深くイメージを膨らませる前にいつも思考を止めるのだった。

行き交う人の流れとは少しあいだをおいて端のほうをゆっくりと歩いた。すると前方のぼぉっとさほど明るくない電球を灯した小さな明かりがともっている場所が見えてきた。
「あれっ、なぁんだ露店かぁ でもあんなところにあったっけなぁ?」 心の中で過去の記憶と照らし合わせながら歩き進んでいくと、斜めに突き出した2本の長い竹を使って張られた布地の屋根の露店が見えてきた。ちょっと覗いてみようかなと好奇心に惹かれるままに覗いてみることにした。少し腰を低くして近くに寄ってみるとさほど価値があるとは思えない物が裸の板の台の上に隙間をあけて並べられて売られていた。露店のそばに立つとさっきまで否応なしに周りから耳に入ってきていた町田の雑踏が一瞬にして聞こえなくなった。シーンと静まりかえった山奥の瑞々しい新緑の静けさの中にいるようなそんな感覚だった。一瞬自分が何をしようとしているのか忘れてしまった。ふと気づくと商品が並べられた台の端のほうにふたりの人間らしい存在がいることに気が付いた。二人は何か会話をするでもなくただそこにじっとたたずんでいるだけのように見えた。そのふたつの存在とは少し距離をおいて芳夫は並べられた商品に目を向けた。残念ながら一見しただけで心を惹かれそうな代物はないなと思った。ふつうこの手の露店なら子供が目を丸くして飛びつきそうなカラフルな色使いのおもちゃなどが並んでいるのが普通だが、残念ながらその手のものもひとつもない。隙間を多くとって並べられている少し古めのおもちゃが余計にその魅力のなさを漂わせていた。ひとつ救いなのは裸の陳列板の背後で薄暗いで明かりの中、芳夫を見上げながらニコニコしているお婆さんの笑顔だった。芳夫が思わず小さく眼だけで会釈をするとほんの少しほほのシワを増やすようにこっくりと頭をさげてくれた。そんな笑顔を無下にして屋台を離れることに気がひけた。ふと陳列板の端をみると大きな黒ぶちのべっ甲みたいなメガネが目にとまった。昔のアメリカ映画にでてくるサラリーマンがかけているようなメガネだ。手書きで値札に300円と書いてある。思わず手にしてみるとすぐにプラスチックのそれだと分かった。掛け見ると意外とフィットしているのが自分でもわかって心の中で似合ってるかなと可笑しくなった。。相変わらずお婆さんはニコニコと笑顔を見せてくれていた。「もしかしたら賢く見えるかな?でも少し古いデザインだしなぁ」そう心の中でつぶやきながら「おばちゃん、これッ」そう言いながらポケットの小銭用の財布から300円を差し出した。お婆さんはニコニコと笑顔を見せながら芳夫受け取った三枚の100円玉を目の前の台の上に横一列に一枚づつ並べ始めた。口がもごもごと小さく動いて何かおまじないでもしているように見えた。芳夫は小さく「ありがとうね」と言ってその露店を離れた。買ったメガネかけずにリュックの小さなポケットにしまって歩き出した。小田急線町田駅に向かう商店街は平日の10時を過ぎても若者や顔を赤らめたサラリーマンが行き交っている。芳夫が歩き出して暫らくするとさっきまであった屋台がそこに居たふたつの存在も一緒に煙のようにすぅっと消えてしまっていた。露店があった場所はもともと建設工事が中断されたビルのエントランスだった。そこに露店があったことなど商店街を行きかう人々にはまったく気づいていない。というよりも行きかう人々にはその屋台やふたりの人の存在そのものが見えていなかったのだ。途中、芳夫は千鳥足のグループにぶつかられそうになりながら歩いた。両脇の店の看板のあかりの上に広がる深い紺色の空に星が光っているのが見えていた。振り返らずに歩いていた芳夫は露店が消えてなくなってしまったことに気づくはずもなかった。そして消えてしまった露店があった地面には三枚の百円玉が横一列に並んでいた。

1-2 兄からの電話

そして母の死

昨年、博田芳夫は母親を病気で亡くしていた。89歳だった。実家の近くで暮らしていた兄から突然メッセージが届いてそれを知った。3つ違いの兄とは反りが合わずもう10年近くまともに会話もしていなかった。ごくたまにメールが来ても芳夫はそのほとんどを読むこともなく破棄しては無視をつらぬいていた。その時のメールも受信したことにはすぐに気づいてはいたがそれを開いて内容を読んだのは受信した翌日だった。いつもなら読まずに捨ててしまうメールをその時ばかりは気になったのか何故読む気になんたのかは今も分からないでいる。メールにはお袋の調子が良くない。早めに一度帰ってこいと短く書かれていた。

博田芳夫は高校を卒業してすぐに受験した全ての大学を落ちると親元を離れてひとり予備校に通うことを決めた。初めて育った家を出て一人暮らしを始めようとする次男坊を親父が運転する車で送り出してくれた。その時はすでに兄は遠くの大学に通っており芳夫が家をでて一人暮らしを始めることは大学受験のためとは言えお袋にとっては相当に寂しいものだったに違いなかった。賄いつきの下宿について家から持ってきた身の回りの荷物を四畳半の狭い部屋に仮置きした。それから改めて3人で家主に挨拶をして親父とお袋は下宿を出た。帰り際に走り出した車の助手席で涙を流して手を振っていたお袋のことを思い出した。芳夫が見た初めてのお袋の涙だったかもしれない。

メールを読んだ翌日、兄から電話があった。スマホのホーム画面に表示された名前を見て芳夫は一瞬、電話を受けることを躊躇した。
「もしもし」
「おぉ久しぶり。元気か?」10年近く聞いていなかった声だった。
「うん、お袋の具合はどう?」みじかく聞いた。
「厳しいって。延命措置をどうするか病院の先生に聞かれたから自然に任せてくださいと言った」
「そうか、わかった」
「帰ってこれそうか?」
「出来るだけ早く帰る。決まったら連絡するよ」
「わかった。連絡してくれ。」そう言うと兄は自分から電話を切った。きっと俺が長く話したくないと思っていることを察したのだろう。

翌日、芳夫は出勤するとすぐに直属長に事情を説明して有給休暇の申請をした。少し長めに休む事で周りの同僚にも迷惑をかけることを思うと申し訳ない気持ちと事情を説明しなければならにことに少し億劫になった。会社組織の中ではどうしてこうも自分の権利であるはずの休暇取得にどうしてこうも気を使わなけれがいけないのかそんな理不尽さに少し嫌気が湧いてきた。芳夫は正式な長期休暇の申請書が受理される前に直属長から口頭で許可をもらうと、担当している顧客に自分が不在になることを連絡し始めた。そして不在になる間の対応を全てアシスタントの渡辺美知子にお願いすることにした。そして翌日の午前中の飛行機で福岡まで移動してそこからはレンタカーで実家の佐世保まで走ることを決めた。芳夫が住んでいる神奈川県大和市の自宅から羽田空港までは電車だと1時間20分以上はかかる。一旦は横浜まで出て京急線か高速バスの選択しかない。車で自走することも選択肢にはあるが実家でのことを想定すると旅程の変更は十分に想定できた。
「やっぱ電車の方が確実だよな」芳夫は以前渋滞にはまってヒヤヒヤした苦い経験があった。迷う事なく電車での移動を決めた。

翌朝、最低限の荷物をリュックにつめて家をでた。駅までの道すがらスーツをきたサラリーマン風の何人かを追い越して急足で追い抜いた。平日の朝、普段着の自分に違和感を感じていた。急足であるく目線の上のほうに雲ひとつない真っ青な空が広がっている。
「お袋、大丈夫かな」心の中でそう呟いてみた。

福岡までの機内ではコンソメスープを飲んで熟睡した。着陸した振動で目が覚めた。実家のある佐世保までは高速を使えば2時間はかからない。途中、芳夫は何度も子供の頃の母親との事を思い返していた。夜、虫歯が痛くなったとき背中に背負ってくれて歯医者まで連れていってくれたこと、少しでも早くデパートに行きたくて母親の化粧する時間が待てずに泣いて化粧の邪魔をしたりしたこと、こんちくしょうって思って頑張りなさいと励ましてくれたこと、たくさんの思い出を振り返りかえっていると自然と涙がこぼれた。
「かぁさん、かぁさん」ハンドルを握りながら何度も何度も小さく声に出してみた。90歳近い、兄との電話の後からその覚悟はできているつもりだった。高校を出てから浪人生活、そして大学、それに社会人になってからもほとんど帰省することもなかった。今年も帰らないよとそっけなく電話で話す程度で、それでもきっと遠くから見守ってくれているはずだった。母親はいつも電話口で笑って「よか、よか」としか言わなかった。芳夫は怒られた記憶がない。そんな母親だった。

佐世保のホテルについた時には3時を過ぎていた。入院している病院に電話すると面会できるという。芳夫は急いでチェックインだけ済ませると車で病院へ向かった。高校生の頃に見て覚えていた感染道路の建物の様子はすっかり変わってしまってはいたが、変わらずに古くなった建物もあって芳夫は懐かしさを感じていた。

病院について受付を済ませてロビーの長椅子で待っていると別の白衣を着た女性がよしおが座っているところまで来てくれて直接、病室がある4階に行くように指示された。「4階で担当の看護婦がお待ちしています」とのことだった。礼を言ってエレベータで4階まで上がっていくとベテランらしい少し年配の看護婦さんが迎えてくれた。
「今、4人部屋に入ってもらってます。どうぞこちらへ」と案内してくれた。看護婦さんの後について部屋に入ると目をつぶって横になっているお袋がいた。
「息子さん、来てくれましたよ」優しく看護婦さんが声をかけるとゆっくりと頭をもたげてこっちを見ると
「あら、来てくれたとね」そう言って少し手を出してきた。芳夫はゆっくりとベッドの側に近づいてお袋が伸ばしたその手をとって
「かあさん、大丈夫ね?」そう声をかけるのが精一杯だった。
「大丈夫さぁ、すぐに治るけん、よかよ」という。そして「はよ、帰れ、はよ、帰れ」と着いたばかりのよしおを追い返そうとする。芳夫はお袋の手を握り返した。頬から静かに涙が溢れた。その後、数分のあいだ都会での生活のこと仕事のことを聞いてきた。
「大丈夫よ」よしおがそう答えると安心したようにまた
「はよ、帰れ」
「すぐに治るけん」を何度も繰り返した。きっと今の自分の姿を見せたくなかったのだろう。
「じゃまた、来るよ」芳夫はそう言って部屋を出た。それから2日後にお袋は旅立ったのだった。

1-1 博田芳夫と高井昭男

いつもの町田の居酒屋で

「ご馳走様ぁ」博田芳夫がカウンターの中の親父さんに声をかけた。
「毎度ぉ ありがとうございます。」
「3番さんお勘定」威勢のいい太い声がレジに向かって発せられた。東京飛び地町田のさほど広くない居酒屋は10時を前にしてもネクタイを外した男たちの愚痴とブツける先のない怒りがタバコの煙をかき混ぜている。テーブルからはみ出した男たちの足と足の間を器用に縫うように店員の若い娘がカウンターに座る博田の横まできて声をかけた。
「毎度ありがとうございます。こちらお願いします」伝票の数字をみて財布を準備している間に気を聞かせてくれたのかそれとも財布からお金を出しているその間が持たずに気になったのか話しかけてきた。
「お連れさん大丈夫ですかね?」博田の横で高井昭男は組んで前に出した両腕の上に顔を埋めて動かない。
「ごめんねぇ、これでも一応課長さんだから疲れてんだよ」
「あ、いえ大丈夫ですよぉ」そう言うと若い娘は博田から預かったお金を持ってレジの方にまた足と足の間を縫うようにして戻っていった。
「課長さんしっかりしろよ」博田はそう思いながら高井の背中をポンポンと軽く叩いて言った。
「おい、帰るぞ、起きろぉ」

町田という町は変わった町だ。老若男女という表現では表しきれないほどの今でいうジェンダーレス人種が妙なバランスを保っているそんな町だ。高校までを福岡の郊外で過ごした博田芳夫にとって町田という街が持っているその垢抜けない雰囲気が馴染めたし都会にいるとう小さな優越感も持たせてくれていた。ただ誰にたいする優越感かまで深く考えることは必要なくて都会にいるというそれだけでよかった。学生時代に小田急線の生田駅周辺で生活していた博田は町田市が東京都のひとつの市であることは以前から知っていたが神奈川県の中にある東京飛び地だいうことを知ったのは上京してずいぶん経ってからのことだった。

「あぁ〜ごめん、ごめん、寝ちゃったなぁ」そう言いながら高井昭男が組んだ両腕から自分の顔を起こしたところにお釣りを持ってさっきの若い店員が戻ってきた。
「こちらお釣りです。ありがとうございました。領収書はどうされますか?」
「いいよ、要らない。ご馳走様ぁ」博田がお釣りを受け取って財布にしまっていると
「払ってくれた?いくら?」高井はそう言うと身を捩って横の椅子に置いたカバンの中に手を伸ばした。
「いいよ、今日は」博田が言うと高井はニマッと笑って
「ゴチっ」と手を挙げた。そして残ったビールを手に取ると一気に飲み干した。博田は少し警戒した。高井はここからが長い。勘定を済ませてもなかなか席を立とうとしないからだ。そして話が始まった。
「あいつさぁ、また俺が苦労して調べて作った資料を利用して上に説明してたわ」高井昭男の愚痴が始まった。今日の幹部会議での出来事らしい。
「まぁな、分かってんだよ俺は、あいつはそう言うやつよ。うまく周りを利用して出世して行くタイプだよ」長くならなきゃいいけど、そう思いながら博田は聞いているフリをしながら高井の話の切れ目を探っていた。
「おい、帰るぞ」タイミングをみて博田は席を立った。まだ高井はまだブツブツと念仏のように何かを唱えている。
「お気をつけてぇ」マスターの声に振り帰って会釈をして二人は店を出た。


「どうする? 次、行く?」高井が聞いてきた。酔いが抜け始めているようだ。
「今日は俺、やめとくわ、一人で行ってきたら?ユキちゃん待ってるじゃねぇの?」
高井は博田から目線を逸らして一瞬何か考えるような素振りをした。すぐに吹っ切るように言った。
「そっか、じゃちょっと俺、顔出してくるわ、お疲れな」高井はそう言うと顔の前で両手を合わせて目で合図を送るとそそくさと馴染みの小さなラウンジの方へと消えていった。
「ふふ、あいつも好きだなぁ~」高井の背中を見送りながら博田は声に出してつぶやいた。
「さぁ帰ろうっと」