「やっぱり中央林間経由にしとけば良かったかな」
ぎゅぎゅうに詰め込まれた車両の中では不規則に揺れる動きに身を任せたほうが賢明だ。周りも器用に揺れながら思い思いにスマホを見ながら朝の試練に耐えている。それでも芳夫はやっぱり町田乗り換えにしたことを後悔していた。
「さっき準急を降りる時に後ろから誰かに見られている気がしたんだけど、気のせいかなぁ?」
まさか自分が自分に見られていたとは思いもしない。それ以上きにすることもなく目的の駅を待った。たった一駅の区間なのに今日はなぜかいつもよりも長く感じる。
・・・誰かに見られている。そんな気配を感じたことは誰もが一度や二度は経験したことがあるだろう。ふとした時にそんな気がしても特に深く考えることもなくすぐに気に留めなくなってしまうものだ。それは誰かが側で何かを伝えたいことを訴えているのかもしれない。
「町田、町田」芳夫はアナウンスをあとにしてJR線への乗り換えを急いだ。小田急線からJR線までの連絡通路にはいつものように多くの人が行きかっている。自然と左右に往来の流れが出来てみな急ぎ足で先を急ぐ。芳夫もその流れに遅れないように少し急ぎ足でついていく。するとところどころで駅までの道でみた空気の澱みがいくつか見えた。「何だろう?あれ」
「さっきも見えたなぁ」不思議に思いながらそれでも先を急いだ。今日は朝から会議なのだ。さほど重要ではないが社会人として遅刻が信頼関係を構築する上では最低限の必須項目であることくらいは芳夫も自覚している。当然、その澱みがオナラが見えているとは想像もしていない。人ごみで臭いもかき消されてしまっているから尚更だ。
「おはようございます」
8時20分過ぎ、芳夫はオフィスのドアを開けながら挨拶をして自分のデスクへと着いた。始業時間は8時45分だ。デスクに座りながら同じ島に座っているアシスタントの渡辺美知子にも声をかけた。
「おはようございます」美知子のほうが先輩なのだ。正確な歳は知らない。聞いてはいけないのだ。独身という情報は確からしい。
「それにしても誰も何も言ってこないなぁ」芳夫は内心少し拍子抜けしていた。自分が欠けているメガネのことだ。褒め言葉を期待しているわけではないのだが、せめて何かしらの反応を示してほしいものだ。そう感じていた。リュックからノートパソコンを出して目の前のモニターにセットして電源を立ち上げる。パスワードを入力してから6階にある休憩室のコーヒーを飲み行くためにオフィスをでた。朝の日課だ。エレベーターに乗る前にトイレに寄った。これもいつものルーティンだ。中に入ると同僚の近藤がいた。
「おっおはよ」
「おはよう」用を足しながらの挨拶はちょっと気まづい。終わって洗面台についてメガネを外して手を洗っていると近藤が不思議そうな顔で話しかけてきた。
「芳夫さぁ」
「何?」
「さっき何やったの」
「え?何って」洗面台の蛇口に近づくように少し腰を屈めて目を濡らしている芳夫に聞いてきた。
「なんか顔の前でメガネでも外しているような仕草してからさぁ~何やってんのかなと思って」
「え、そうだけど」そう言いながら芳夫は洗面台の傍に置いたメガネをとって自分の鼻にかけ直した。横並びで近藤がその様子を不思議そうな顔で見ている。お互いに目線を合わせた。近藤は少し変な顔をしたが「お先」そういうとトイレから出ていった。
「何なんだろ」芳夫はそう思いながら鏡の中の自分を正面からみて固まった。
「え、メガネがない」鏡に写っている自分はメガネをかけていないのだ。鼻の上にメガネがある感触は確かに感じられている。そぉっと両手で見えていないメガネを持ち上げてみる。確かにメガネだ。’外してみても確かにメガネだ。でも鏡に映った両手にはメガネが写っていない。
「え、なんだこれ」
「俺にしか見えてないメガネなの?」自問した。
「いやいや、そんな事ってあるか」混乱した。すると別の社員がトイレに入ってきた。芳夫は少し慌てて軽く会釈をするとトイレをでた。
「どうなってるんだ?」感触だけでメガネを掛け直すとエレベータに乗って6回に向かった。エレベーターの中にいた顔見知りの社員からは普通に挨拶を受けた。小さな声で返す。メガネのことが気になって仕方ない。
「こいつらもはメガネ、見えてないのかな?」
ピィンと鳴った。休憩室がある6階でエレベーターを降りた。芳夫の会社は小さいながらも自社ビルだ。休憩室にはコーヒーやジュースの自販機があってガラス張りのドアからは外のスペースにでることができるようになっている。始業前のこの少しの緩い時間帯には、日ごろ肩身の狭い思いをしている愛煙家達がカップコーヒーを片手に自然と集まってくる。芳夫はタバコは吸わない。やめて5年になる。さほど辛い思いもせずにスパッとやめることができた。やめたあとも一本も吸っていないがあの香りは好きだ。ただ一本吸うと一気に気持ちが崩れてしまいそうで、それが嫌でなんとか吸わずいられている。自販機でブラックのコーヒーを買って備え付けのキャップをカップにつけて愛煙家には目を向けずに休憩室を出た。エレベーターまで歩く間もめがねのことが気になっていた。
エレベーターの前でボタンを押してしばらく待っている間に少し目眩がした。「あれ、どうしたんだろ」そう思って瞼を閉じると意識が遠のいてしまった。ふと正気に戻っている自分に気がついた。意識が遠のいたことにも気づいていない。芳夫は休憩室を出たところにいることを理解した。そしてエレベータの方をみて息を呑んだ。
「あっ俺だ」
さっき自販機で買ったコーヒーのカップを持ってエレベーターが上がってくるのを待っている自分が立っている。
「えっまただ」
「どうなってんだ、俺」